三之丸天王祭


宵宮の車楽と見舞車 尾張名所図会(片端試楽)

三之丸天王祭は名古屋築城以前より鎮座する牛頭天王社の祭礼で京都祇園社の御霊会の影響を受けて始められ祇園祭とも称された。
祭礼日は6月15日が宵宮、16日は朝祭である。

其の祭礼には天王御車とも呼ばれた二輛の車楽が曳き出された。
車楽とは中世以来の伝統を有する祭車のことである。

この車楽は先車は名古屋村、広井村、車之町、後車は車之町、益屋町が年番を定め宵宮と朝祭で装いを変えて曳出した。古は中野村、高畠村、車之町が後車を務めた。
車之町は「二輌番」と称し先、後の両車を務める年もあった。

十代藩主斎朝公は車之町に胡蝶の舞の人形を据えた山車を下賜し15日の宵宮に曳き出させた。是を見舞車と呼び、是を期にその他の町村からも続々と見舞車が造り出され天王祭は大変賑やかなものになった。
最盛期には車楽2輛と見舞車16輛が祭礼に曳き出された事を伊勢門水は自著「名古屋祭」に記述している。

盛大だった祭礼も明治維新となり藩からの車田の給付五十石が無くなり祭礼の維持が難しくなる。明治6年に名古屋村と広井村が車楽支配から離脱し、明治9年には天王社が名古屋城外の茶屋町へ移された。
その後、益屋町も離脱した為、旧来の氏子での祭礼の実施は困難となった。
明治10年代を最後に車ノ町以外の見舞車は曳き出されなくなり自町村の祭礼に曳くのみとなった。

明治25年に新しい氏子町内を編成し、神輿二基を新調し、新式の祭礼を始めた。
その祭礼に西王母車(旧若宮祭車)と和布刈車(旧見舞車)が曳き出された。
戦災で車楽1輌(先御車)を焼失した。

三之丸天王社


那古野神社(明治年間)伊勢門水著「名古屋祭」より転載

醍醐天皇の御代、延喜11年(911)3月16日に那古野庄今市場に勅を奉じ鎮祭せられた。
当時は亀尾天王社と称し、郭内天王、三之丸天王とも呼ばれた。
神仏集合により別当として真言宗亀尾山安養寺十二坊(天王坊)があった。

天文元年3月、那古野合戦の折若宮もろとも兵火にかかることになったが、織田信秀が天文7年社殿を再興した。

元禄4年8月3日、豊臣秀吉は改めて社領348石余を寄せる。徳川家康が慶長15年名古屋城築城の際、郭内に鎮座する若宮・天王社の両社を郭外への遷座を計画し築城奉行、佐久間政実に神籤を取らせ神慮を伺った結果、若宮は松原町へ遷座し、天王社は不遷となり、城の総鎮守として現社地に依存することになった。
元和6年9月には藩主義直により改めて社領348石余を寄せ墨印地とした。

明治維新、廃藩置県の際社領は没収され安養寺は廃寺となった。
神仏混こう禁止の後、牛頭天王社を改め、須佐之男社と称する。
明治5年郷社に列し、同9年10月茶屋町(現社地)に遷座となる。
同11年には県社に列し、明治32年7月8日に那古野創始の由緒に基づき那古野神社と改称した。

見舞車

宵宮の車楽に献灯する目的で造られた山車で車楽に関わる車ノ町益屋町名古屋村(5輛)、広井村(9輛)の4町村より曳きだされ、伊勢門水著「名古屋祭」には16輛が記録されている。
天明5年頃、町々が提燈を灯し宵宮の車樂に献灯していたが、享和3年頃に大八車に笹提燈を飾った見舞提燈小車が誕生、後に見舞車と進化する。

見舞車の形状は東照宮祭、若宮祭の山車同様、名古屋型である。
見舞車を小型の山車と一般的に表現されているが、諸文献で記載されている小車との表現は、車樂(大きな山車)に対する見舞車(小さな山車)の呼称であり名古屋型の小型の山車の意味では無い。
三之丸天王祭と同様に古くから山車祭を始めていた熱田大山祭では大山(大きな山車)に対し車樂を小車(小さな山車)と呼ばれる。

山車の大きさは山車を曳く町内の道幅を表しており、碁盤割町内や若宮氏子町内では道幅が広く大振な山車が曳けたが、近在の町村では道幅が狭い為に小振な山車しか曳けなかった。
見舞車の中でも碁盤割町内の益屋町の靭猿車は東照宮祭車と同様に大振りである。

■見舞車16輌(伊勢門水著「名古屋祭」記載祭車)
町名 祭車名 建造年 (西暦) 先代の祭車
車之町 和布刈車 明治12年 胡蝶車(文化年間以前)
益屋町 靭猿車 嘉永元年 司馬温公車(文化年間以前)
新道町 殺生石車 文政10年
新道町 翁車 文化元年
小伝馬町 湯取車 安政元年 湯取車(享和元年)
散手車 文政11年
万松寺町 浦島車 明治12年 浦島車(文政8年以前)
浦島車(天保13年)
花車町 紅葉狩車 文政年間
花車町 二福神車 天保7年 二福神車(文政4年)
新屋敷 神功皇后車 文政元年
内屋敷 唐子車 天保12年
中之切 張良車 天保13年
戸田道 弁天車 文政年間
古江 神楽車 文政年間
禰宜町 胡蝶車 文政年間
禰宜町 人形不定車 文政年間
=現存 ・=他所に譲渡され現存 ・=現存の可能性がある

※文政7年の「青窓紀聞」では巾下(12輛)広井(10輛斗)益屋町(1輛)車ノ町(1輛)の24輛斗の存在を記録している。
他の文献では 上ノ切、ハ切、小(古)江川に存在した記録がある。

この様に見舞車は上表に記載されている16輌以外にも記録があり、現在も他の地区の祭車として現存している可能性を秘める。

新式の祭礼

明治9年三之丸天王社は茶屋町に御遷座(須佐之男神社と改名)した後、氏子町々の区域が定まり名古屋市目貫の本町玉屋町を始め、伝馬町、京町通りから川西迄に及んで総計五十三ヶ町、五千四百十五戸の立派な氏子が確定した。
その為、旧氏子町内による伝統の祭礼が出来なくなり見舞車も参加しなくなった。

明治25年に町々は往古の車樂の外に、京都式の白木の神輿2基を新調して新しい行列(山車、警固、神輿等)による祭礼を始めた。
上玉屋町の西王母車は氏子変えにより天王祭車となり当祭礼に曳く事になった。
祭礼日も7月16日(15日は宵宮)に変更された。
須佐之男神社は明治32年に那古野草創の由緒を以って那古野(なごや)神社と改名した。

◆新式の祭礼行列
1.西王母車  上玉屋町 ―― 山車(旧若宮祭車)
2.和布刈車  車ノ町  ―― 山車(旧天王祭御見舞車)
3.猿田彦   呉服町(二丁目)  
4.御獅子   伏見町・研屋町
5.龍頭    西魚町
6.鯱     小田原町
7.獅子    各町子供 
8.大鳥毛   伝馬町 四人
9.傘鉾車   玉屋町(三丁目)
10.剣車    上長者町
11.樂人    下長者町(三丁目)
12.第一神輿  舁人五十人
13.第二神輿  舁人六十人
14.その他   盛栄連の屋体、樽神輿、梵天等


須佐之男神社神輿御渡之図(部分) 個人蔵

明治25年(1892)に神輿二基を新調して始まった新式の祭礼に氏子変えの玉屋町から西王母車(元若宮祭の祭礼車)、車之町の和布苅車が行列に参加した。
この祭礼の記念に刷られた「須佐之男神社神輿渡御之図」には当祭礼に参加した6輛の見舞車が描かれており、見舞車の資料は少ない為貴重なものと言える。