若宮祭〜上玉屋町 西王母車(せいおうぼ)

吉川弘道筆「西王母車図」木村哲央氏蔵

初発、侍四人して神輿に供奉する。
延宝2年(1674)富士山車を造る。
延宝3年(1675)西王母車に替る。
明治25年(1892)氏子替えにより天王祭の祭車となる。

●人形

西王母の傍らに一人の唐子を置き、前には四足の台の上に大きな桃が据えてある。其の桃が二つに割れて中から唐子が飛び出るからくりであった。
明和9年(1772)に大阪の人形師竹田寿三郎の細工で西王母は其侭置き二人の唐子を改正した。
大唐子が小唐子を肩車の乗せ高い桃の枝に結び下げた糸總にとまらせて退けば小唐子は左手でぶら下りながら右の手で太鼓を打つ骨の折れたからくりである。
明治4年(1871)からくりの糸加減が非常に難しく取扱いに困難して元の大桃が割れるからくりに戻す(竹田新助作)
明治12年(1879)からくりが単純で面白くないので、土井新三郎(花新)の手で糸を改良して再び肩車の唐子に替える。この時大桃の割れるからくりは東春日井の小牧町へ売却した。(現在下本町の西王母車の人形になっている)

●大幕

最初茶地と紺地の縦継に花模様の今織であった。
安政年中(1854-1860) に猩々緋の無地幕に替る。

●水引幕

最初紺地に龍の今織であった。
安政年中(1854-1860) に白羅紗に替る。模様は以前の唐楽器を写して金糸で縫を施した。

●改修

安政年中(1854-1860)に車體及び諸道具を改造した。

※この車は下玉屋町の布袋車と二輛引渡しが享保9年(1724)に隔年引渡しになり、享保18年(1733)再び二輛引渡しとなり元文4年(1739)隔年引渡しとなった。
一説には西王母車を享保9年作として、この年より隔年引渡しとなったと唱える諸本もある。