若宮祭〜大久保見町 福禄寿(ふくろくじゅ)車


昭和30年の福禄寿車 木村哲央氏提供

初発より当車を出す。

●人形

住吉町の住人山伏多聞院の作で天窓の長い福禄寿を大将とし杖に巻物と瓢箪を結びつけて肩にかけ拂子を持ち、二人の唐子があり一人の唐子が前に据へつけてある鉦鼓を打つ仕掛であった。
宝暦11年(1761)--- 明和4年(1767)説もある--- 人形師竹田寿三郎の細工でからくりを改正し一人の唐子は團扇太鼓を打ち今一人は連台に左手をつき逆立となり頭を振りながら右手で摺鉦を鳴らすというはなれからくりになる。
宝暦11年(1761)蔦屋(竹田)藤吉が連台を新造する。
宝暦12年(1762)大将人形、福禄寿が蔦屋(竹田)藤吉の手で新造される。
天明4年(1784)鬼頭二三が小唐子を修理する。
斎朝公御寵愛の麾振りは多聞院の作で此麾振りの顔は其頃市中に異様な面ら附をした塩売男があって其の相貎が一風變って面白いと夫れモデルにして彫刻した稀代の人形である。
慶応元年(1865)麾振り人形は花井木宗助の手で新造された。
※宝暦以前の古図によると麾振棚の左右に梅の花を捶し福禄寿は拂子を持って杖に瓢箪がつけてある。中興之を廃して今は巻物のみを用いているが此の巻物のうちには昔博学の能書家が有て福禄之記と言うものを作り其れが収めてあるとの事。

●大幕

最初菱形に雨龍の金襴であったが、天保6年(1835)2月に斎朝公より猩々緋の無地幕を拝領した。
金襴を用いた山車が多かったが、当車が猩々緋の無地幕を拝領してから流行したといわれる。
但し、猩々緋の無地幕はすでに東照宮祭では中市場町の石橋車、桑名町の湯取神子車で用いられている。

●水引幕

最初猩々緋の無地幕であった。
天保年中(1830~1844) に白羅紗に群鶴の縫ちらしと替る。この下絵は法眼梅山の筆で写生の鶴は最も見事な筆跡である。

●改修

天保7年(1836)前年大幕拝領の名誉に誇って諸道具を改良して出高欄を造り、福禄寿に因んで南極星を珊瑚等で形どった。(天保6年説もある)
天保12年(1841)折上天井が新調される。この年も大きな改造が行なわれ、原形が此の時点で出来あがったと思われる。

●囃子

普通の四拍子であるが、大太鼓は若宮祭りの中の逸品で其のゆったりとした音調は大久保見の大太鼓と言って四方に鳴り渉った。