東照宮祭


◆名古屋東照宮神事山車引出し之図 明治18年塚本康満作

4月16日試楽祭、翌17日本楽祭、名古屋祭とは当祭礼を挿す。
徳川家康の三回忌の元和4年(1618)に祭礼が始まり当初は数ケ町の警固のみで簡単な行列で有った。

翌5年東照宮が完成し、その年に七間町が大八車を二輛組合せ西行桜の能人形を飾った山車を曳きだした。

これが当祭礼の第一号の山車であり、翌元和6年同じく七間町が弁慶と牛若丸が五条橋で大立ち回りを演じるからくり人形を載せた橋弁慶車に替え行列に曳きだすと、これが大好評でこれに刺激を受けた各町が山車・練り物を造り出し、元禄・宝永のころには山車九輛と三十五ケ町が繰り出す警固の行列が、本町通りを通り末広町のお旅所まで練り歩く壮大な行列が完成した。

七代藩主徳川宗春、十代藩主徳川斎朝とお祭り好きの殿様の出現もあり藩主催の大祭礼化をしていった。
元治2年(1864)の250年祭では総勢6,800人を超える行列を拵え、壮大なスケールで全国でもトップクラスの祭礼であった。
当地では犬山祭等この祭礼を真似て山車祭りを始めた所が多くあり山車祭りのルーツである。

明治維新で暫く中絶したが、明治14年、国祖義直公の神霊を東照宮に合祀した年より再興となり新しい警固での行列が始められた。
盛大な祭礼も戦争の影響で昭和12年を最後に自粛をし、その後戦災で山車9輌全てを焼失した。

東照宮


東照宮(戦災焼失前)戦前絵葉書

元和5年9月17日尾張藩祖義直公が城内三之丸に創建する。

家康公を御祭神とし、左に日吉権現、右に日光権現を配享する。明治9年10月5日藩校・明倫堂跡の現地社に御遷座し県社に昇格する。
明治14年には義直公、慶勝公の尊霊を合祀する。

戦災にて本殿、主要建造物を焼失したが、昭和29年建中寺より義直公の妻・春姫の霊廟を移築して社殿とした。

祭 車

橋弁慶車、雷電車など祭礼初期の山車形態は露天の山車で前人形は幣振りが多かった。
名古屋型の山車形態の起源は万治元年作の湯取神子車と言われる。四輪外輪で輪架けがつき、その上には楫棒が平行につく。
唐破風の屋根を細い四本柱で支え、その上山にはからくり人形が乗せられる。前棚という一段下った場所には采振り人形が乗る。
お囃子・からくりの所作は能楽から取り入れたものが多い。
昭和20年の太平洋戦争で祭車9輛全てが焼失した。
唯一、桑名町の湯取神子車の古車が筒井町に現存している。

■東照宮祭の祭車
町名 祭車名 建造年 (西暦) 先代の祭車
下七間町 橋弁慶車 元和6年 1620 西行桜車(元和5年)
伝馬町 林和靖車 享保18年 1733 梵天王車(元禄14年)
和泉町 雷電車 承応元年 1652
上長者町 二福神車 享保17年 1732 鐘巻道成寺車(明暦32年)
桑名町 湯取車 万治元年 1658
宮町 唐子車 宝永6年 1709 石引車(寛文元年)
竹生島龍神車(宝永4年)
京町 小鍛冶車 宝永4年 1707
中市場町 石橋車 宝永元年 1704
本町 猩々車 万治元年 1658

警固

大母衣小母衣から幟差迄35箇町の警固練り物が山車9輌と共に次第を打って整々堂々とお旅所までの行列が進んだ。帰路は山車は逆順であったが、警固は本順で行列を行った。

祭礼が始まった元和4年(1618)七間町、桑名町、西鍛冶町等少数の町より警固が出された。
その後、山車の登場もあり祭礼が盛大になるにつれ警固を出す町内も増え元禄、享保の頃には壮大な行列が完成した。
元文4年(1739)に倹約の主意を以て、人数を半減したが、明和安永、天明より次第に隆盛に向い天保時代に華奢の絶頂に達した。

明治維新で暫く中絶したが、明治14年、国祖義直公の神霊を東照宮に合祀した年より再興となり新行列での警固が始められた。お奉行様は無くなり、権現坊は廃せられ、大方の警固は消滅したが漸く残った5〜6箇町の警固と甲冑武者の志願者を供奉した。