若宮祭


◆名古屋若宮八幡例祭神輿渡御之図 明治32年塚本康満作

六月祭と称し築城以前は若宮の今市場に在りし時、天王社と同時に祭礼が行なわれ祇園祭とも称された。

名古屋城が社在地に築城する事になり、御籤の結果で現在地に遷座した。寛文4年(1664)に神社の造営があり氏子町内も整って来たので簡単な祭が行なわれる様になった。

寛文11年(1671)に笠鉾が出て本格的な祭礼が始まる。
末広町の黒船車などの山車が登場したのは延宝2年(1674)からで最盛期は7輛の山車が氏子町内から曳き出された。

祭礼日は6月15・16日で15日は試楽祭で山車は数多の提燈で飾られ、境内も数多の提燈の他大提燈も吊され大変美しく賑やかであった。
16日は旧社地である三之丸天王社へ神輿・山車等の行列が進み、山車は夕方に引き戻す。
夜になると数多の提燈を点し様々の囃子を演じて帰る。是を戻り車と云い若宮祭一番の光景であった。

その後明治維新となり、明治6年御神幸は一時中絶となり、又氏子町域の変更等もあり、山車のみ曳渡していたが、明治32年の仁徳天皇1500年祭より御神事は再興され、氏子の町々より新しい警固を出し新式の祭礼が始まった。
山車は5輌(上玉屋町の西王母車は那古野神社の祭車となり、下玉屋町の布袋車は明治24年に有松へ譲渡された)が曳き出された。明治34年より祭礼日は5月15・16日に変更された。

若宮八幡社


戦前の若宮八幡社 絵葉書

大宝年間(701-704)文武天皇の御世に那古野庄今市場に勧請される。
享禄5年(1533)那古野合戦(今川・織田攻防)の折、社殿悉く焼失するも、織田信秀が天文8年(1539)再建する。

その後、豊臣秀吉が社領二百石を寄進し、天正12年(1585)社殿を再修する。徳川家康が慶長15年名古屋城築城の際、御籤の結果、松原町に奉遷し名古屋総鎮守と総称される。

寛文4年に二代目光友公が社殿を造営する。明治9年に県社に昇格する。昭和20年3月戦災により社殿等を焼失する。昭和32年5月に現在の社殿を造営復興する。

祭車

祭車7輌の内、黒船車は名古屋系船型で他6輛は名古屋型である。
明治32年御神事再興時に存在した祭車5輛中黒船車、寿老人車、陵王車の3輛が昭和20年の戦災で焼失し、福禄寿車と河水車が焼失を免れた(河水車は戦後新出来町へ譲渡された)。

■若宮祭の祭車
町名 祭車名 建造年 (西暦) 先代の祭車
末広町 黒船車 延宝元年
中須賀町 寿老人車 宝暦元年 佐夜姫車(延宝2年)
猿舞車(宝永5年)
上玉屋町 西王母車 延宝3年 富士山車(延宝2年)
下玉屋町 布袋車 延宝3年 風車(延宝2年)
大久保見町 福禄寿車 延宝4年
住吉町 河水車 明和9年 産宮参車(延宝4年)
菊慈童車(宝暦11年)
門前町 陵王車 明和5年 花車(延宝2年)
鵺車(延宝3年)
大神楽車(貞享3年)
(橘町) (鵺車) (延宝2年)

西王母車は明治25年氏子変えにて那古野祭の祭車となる。
布袋車は明治24年に有松東町に譲渡される。
橘町の鵺車は氏子が違う為参加が出来なくなった。

警固

寛文4年に神社の造営があり、氏子町内が整ってきたので簡単な警固の祭礼が始まる。
寛文11年に笠鉾が出て本格的な祭礼となり各町より警固が出される様になった。
延宝2年に黒船車を始め5輌の山車が加わり、延宝4年に7輌の名物祭車が出揃った。
盛大に行われてきた若宮祭も明治維新を向かえ御神事は中絶になったが、明治32年(1899)に仁徳天皇台1500年に当って御神事再興になり新式の警固の祭礼が始められた。