宮の祭礼 熱田大山祭(熱田天王祭)


熱田南新宮社(明治年間)  「名古屋祭」より

熱田神宮の攝社、南新宮社(唯一朱塗りの社殿)の祭礼で往古から毎年6月5日に祭礼が行なわれて町から大山、車楽を曳きだし天王祭或いは大山祭と称した。

一条天皇の御代、疫病が全国に流行し熱田の地でも病魔で倒れる者が著しくなり疫神を祭って平穏を祈った。その後、文明年間に大山、車楽を造ってからこの祭礼が始められた。
其の頃は足利室町幕府の東山時代で社会組織の最も混乱した時代ではあったが、美術工芸等は一時代相をなして文化史上極めて特色がある時代であり、豪華壮麗な物が造られた。


昭和10年の田中大山 
熱田神宮御遷座祭絵葉書

大山は始め、田中町、大瀬子町、旗屋町の各町に、車楽は市場町、中瀬町、須賀町、神戸町、富江町、伝馬町に造られて、年々各町交代に大山1輛、車楽2輛を曳き出した。
大山の中で旗屋の車は、宝歴年間に火災で焼失した、或るいは祭礼日に倒壊したため廃車したとも伝えられている。

元禄12年(1699)の熱田町旧記には往古にすでに絶えたことが記されている。
大瀬子の車は明治27年の祭礼を最後に明治末年廃車となり市場の車楽も昭和の始めに廃車となった。他の6輌は明治31年頃、市内に電線が張られ奉曳が出来なくなり廃絶となった。
昭和2年の熱田神宮千八百年祭の折、田中大山、市場車樂、伝馬車樂の3輌が飾られ、昭和10年の御遷座祭には廃車の大瀬子、市場以外の6輌が飾られた。
その後は飾られる事は無かった。

<祭車の年番>
市場車楽(先車) 田中大山(大山) 神戸車楽(後車)
伝馬車楽(先車) 大瀬子大山(大山) 中瀬車楽(後車)現存
富江車楽(先車) 旗屋大山(大山)  須賀車楽(後車)

※各町はもと旗屋、田中、市場、中瀬は村と称し大瀬古(子)、須賀、東脇(後の富江)は浦と称して之れを熱田の三ケ浦と言った。伝馬は今道、宿の2村からなり交代で車楽を曳いた。後に村は町名に、浦は村を経て町名となった。