東照宮祭〜本町 猩々(しょうじょう)車

猩々車 東照宮御神事行化粧之図(明治21年塚本康満作)

初発は慶安3年(1650)−慶安元年(1648)説もある−鯛釣房の警固を出す。
万治元年(1658)猩々車に替る。

●人形

二人の猩々の前に大瓶を据え女猩々柄杓を持ち酒を盃に汲み移して飲む。男猩々は瓶の縁に両手を掛け頭を瓶中に入れ逆立となり酒を飲む。
此人形には背銘があって京都天下一山門山城守と書かれている。
麾振りは梨子打烏帽子に褐色の素袍で大形の白幣を持ち左右の若松を挿す。

●大幕

猩々緋に萬暦龍の縫幕を文久2年(1862)猩々緋の無地幕に替る。
初発は不明である。

●水引幕

寛政10年(1798)紺地金襴の荒磯裂と仕替る。
初発は不明である。

●天幕

純子に牡丹模様で、赤、萠黄、紺の幔幕を用いている。

●改修

明和6年(1769)天井、高欄を仕替る。
寛政3年(1791)大瓶の前に立浪の形を造る。
文化10年(1813)輪替る(大振になる)
天保3年(1832)車輛を大改造する。波の彫物、蝙蝠の金物岩や酒瓶の彩色等を替える。是は渡辺清が丹精をこらしたもの。

●囃子

道行は能楽猩々の亂の手を崩して用い、男猩々が酒を呑む時の囃子は石橋の笛で、又女猩々が動く時は特に下り端と変更する。この囃子の終りに臨んで大太鼓を十三発続けて打つ、これを波の音という。

※享保年中の頃、本町(猩々車)と下七間町(橋弁慶車)が進行の順序をめぐる論争を起こし奉行所の裁許により隔年に先車となり、帰路は最後尾の車より順に曳くことになった。
廃藩以前は参勤交代があり藩主が1年交代で江戸城へ詰めたもので、御在国の年に橋弁慶車が先車で藩主の御上覧を仰いだ。