町続きの祭礼〜広井天王祭
祭礼、山車の製作の経緯は新道天王祭と同じである。
山車は三之丸天王祭の献灯目的に造られた見舞車であり、6月15日の宵宮に広井村より9輛が参加した事を伊勢門水は「名古屋祭」に記述している。
広井村では三之丸天王祭とは別に6月3・4日に祭礼を実施した。
この祭礼は広井八幡、広井天王社(洲崎神社)の神社祭礼とは異なり、各地で実施されている祇園天王信仰で始められたものと思われる。
金明録の文政元年には祭車が広井村天王祭に曳かれた記述がある。
文政3年(1820) には人形を乗せた山車が登場している。新道天王祭の祭車と同様にこの時期に提灯台から名古屋型のからくり人形山車へ変化していったものと思われる。
文政4年の三之丸天王祭には11輛の見舞車が参加している。
明治維新後、三之丸天王祭の祭礼が衰退した明治中期に山車の譲渡や焼失があり、戦前は紅葉狩車・二福神車・唐子車・弁天車の4輛残すのみとなった(弁天車は戦災焼失)。
現地を離れているが、神功皇后車が筒井町に、張良車が常滑市西ノ口に現存している。
又、二福神車の旧車が浜北市宮口地区に現存している。
上花車・紅葉狩車
文政3年(1820)以前の作と思われる(詳細は三之丸天王祭の見舞車の項参照)
下花車・二福神車
文政4年(1821)の作(詳細は三之丸天王祭の見舞車の項参照)
新屋敷・神功皇后車
文政元年(1818)の作(詳細は三之丸天王祭の見舞車の項参照)
内屋敷・唐子車
文政4年(1821)以前の作と思われる(詳細は三之丸天王祭の見舞車の項参照)
戸田道・弁天車
文政4年(1821)以前の作と思われる(詳細は三之丸天王祭の見舞車の項参照)
禰宜町・胡蝶車
文政4年(1821)以前の作と思われる(詳細は三之丸天王祭の見舞車の項参照)
古江・神楽車
文政4年(1821)以前の作と思われる(詳細は三之丸天王祭の見舞車の項参照)
中之切・張良車
天保13年(1842)の作(詳細は三之丸天王祭の見舞車の項参照)
禰宜町・人形不定車
文政4年(1821)以前の作と思われる(詳細は三之丸天王祭の見舞車の項参照)
※文政4年(1821)の金明録には広井村から11輛の見舞車が三之丸天王祭に参加した記述がある。
上記町内の他に上ノ切、八切(蘇鉄町附近)も見舞車を所有していた事を記述している。
この年は広井村郷之内から上ノ切(上地区)、新屋敷(中地区)、八切(下地区)の3輌が片端筋の車楽へ献灯を許され、他の8輌は堀川を渡ることが許されなかった。
文政7年も同様に郷之内の3輌が車楽への献灯を許され、この年にからくり人形が乗せられた。