町続きの祭礼〜志水八王子祭

八王子天王社は町並みが名古屋の御城下内になる志(清)水から続いていたので志水八王子社とも呼ばれた。
名古屋城が築城されるまでは亀尾(三之丸)天王社及び若宮八幡宮と共に祀られていた。
慶長15年(1610)の築城に際し御籤の結果、若宮八幡宮と八王子天王社は城外へ移されることになり八王子社は鬼門除として御城の東北になる地に移された。
祭礼は享保19年(1735)徳川宗春の時代に始まり、かつて一緒に祀られていた若宮八幡宮・三之丸天王社と同じ6月15日に行なわれ、明治時代以降は5月15日に変更された。
天保7年(1836)には祭礼が盛大になり上之切は社前の池に王子丸の黒船を飾り、中之切は石橋車の他に山車を新造した。

西杉村出町上之切・王子丸(黒船)

天保7年(1836)の作。黒船は其の年の日数の提灯を掲げ、その上位に八王子神社の五個の大提灯を掲げ最上部に八の字の提灯を上げた。
黒船の中では氏子が手踊りをし踊りの師匠なども来て手踊りした。
天保7年に黒船が出来る前は円形の提灯山であった。

西杉村出町中之切・石橋車

文化9年以前に中の切で石橋車が造られる。
文化9年に改修しからくり人形が載せられ本式になる。

西杉村出町中之切・唐子車(仮名)

天保7年頃八王子天王祭車として西杉村出町で造られる。

※からくり人形の収納箱及び人形頭に天保7年の墨書き銘があり製作年代を表している。
この年上之切は円形の提灯山を王子丸(黒船)に替え子供の手踊りも始められた。祭礼の出し物の大改革が行なわれ盛大になっている。
中之切も石橋車を所有しながらも山車を新造した事が考えられるが定かではない。
慶応元年(1865)牛立村に譲渡する。
牛立村では牛頭天王車として牛立天王祭に曳き渡している。
※元治(1864)になると政情不安の為、尾張藩からの八王子天王社への援助が無くなり神社の運営が困難になった事により中之切が所有している2輛の内1輌を牛立村に譲り渡した。