町続きの祭礼〜出来町天王祭

三地区に鎮座する須佐之男社の祭礼で6月6日に天王祭を行ない、各地区より3輛の祭車を曳渡した。
文化年中より若宮祭の古車を譲り受け祭礼に曳き始めたが、当時は藩主の許しが無かったので提灯台の位置付けであった。
文政4年、中之切が10代藩主斉朝より御庭車の石橋車の拝領を受けた翌5年に本式の山車と認められた。
天保年中に斉朝の御上覧を機に、水引幕に縫いを施し大幕は猩々緋に仕替える等装飾を一新した。猩々緋の大幕の使用は藩より許可が下りていなかったので、役人の質問に対し「紅木綿」と答えてお咎めが無かったとの言い伝えがある。
伊勢門水は自著「名古屋祭」の中で東部地区一の大祭と記述している。

新出来町西之切・鹿子神車

宝歴11年若宮八幡車祭礼車の菊慈童車として住吉町で製作。明和9年(1772)住吉町が河水車を新造した為、文化7年(1810)に菊慈童車を西之切が譲り受けたとの伝承がある。
だが台輪、輪等は住吉町ではなく玉屋町から購入している。
又、購入時に能楽菊慈童の人形は付属されていなかったので、からくり人形は西之切で新造されたものである。

新出来町中之切・石橋車

文政4年藩主よりお庭車を拝受し石橋車と名付けた。

古出来町東之切・唐子獅子車(石橋車)

寛保年間に他所(中須賀町か)で製作される。
文化2年(1805)東之切が購入し改造する。

中之切・石橋車(戦災消失)

東之切・唐子獅子車(戦災消失)

昭和10年頃 山田鉦七氏撮影