町続きの祭礼〜洲崎天王祭

洲崎神社は、名古屋開府以前の鎮座で往古は入海の岬であった故洲崎天王とも呼ばれた。
江戸時代には広井天王社・牛頭天王社・天王崎神社等と呼ばれ城下の人々の信仰を集めていた。
城下では数少ない牛頭天王をまつる神社である。例大祭は6月16日に試楽、17日に本祭が行なわれた。

七代藩主宗春の時代の享保17年(1732)には堀川で船祭が開始された。
御葭船を先頭に、神具を乗せた船、神輿を乗せた船等が行列をつくり、巾下付近の御旅所へ御渡し、帰りには陸路を行列して還幸した。
船行列には氏子達が祭り船を出し、夜には御葭流しの神事も行なわれるなど多くの見物人で賑わったが、宗春の隠居とともに船行列が廃止され明治21年頃(1888)には船祭も行なわれなくなった。

明治27年頃(1894)氏子の花園町・常盤町から若宮祭の黒船に類似した船車(常盤町は名古屋型)を2輛新調して祭礼に曳出したが是も4〜5年で止め、その後花園町は船車を久屋町の金毘羅神社の氏子に売却した。
それからの祭礼は只の提灯祭りとなった。伊勢門水は自著「名古屋祭」の中で山車を船車2輛と記載しているが、常盤町の山車は現在の田原市新町に現存しており名古屋型の山車である事が、平成15年に木村哲央氏、岩田高典氏と筆者の調査で明らかになった。
新祭礼日は5月13・14日。

花園町・船車

明治26年(1893)若宮祭黒船車に類似した祭車を造る
その後明治年間に久屋町の金比羅神社の氏子に売却した

常盤町・山車名不明

製作年代不明
明治27年(1894)名古屋型山車を所有する(他所から購入か、或は新造かは不明である)
旭廓移転に付、昭和3年(1928)に田原町新町に売却する(新町では応神天皇車と名付け当地の祭礼に曳いている)
※文化元年(1804)に再開した天王祭に飾りを付け提灯を灯し囃子をを奏でた祭車が曳かれた事が猿猴庵日記に記述されている。
内屋敷町の唐子車も当神社の祭礼に山車を曳いたとの伝承がある。当時曳かれた山車の形態は提灯車(台)と考えられる。

平成15年9月、木村氏、岩田氏、筆者の調査で洲崎天王祭の山車であったことが確認された。