町続きの祭礼〜その他諸社の祭礼
大曽根祭
大曽根町内には片山八幡神社の他に八幡神社の西隣に神明社(天道)があり町並みの所々には屋根神様がある。
明治20年(1887)上町より胡蝶車を譲り受け、当初は8軒、後にくるままち21軒と言われた人々が、津島神社のお札を受けて屋根神に捧げ大曽根天王祭を始めた。
その後八幡神社・神明社にも参拝する様になった。昭和4年(1929)片山八幡神社が県社になったことを期に、大曽根町全体で維持管理することになり山車蔵も神明社内に設置して、八幡神社と神明社の祭礼日の10月17・18日に山車を奉曳することになった。
大曽根町・胡蝶車
製作年代不明。明治20年に上町より胡蝶車を購入するとの説がある。
※車ノ町が和布刈車を明治12年に新造した際に古車の胡蝶車を譲り受けたとの説がある。又は広井村禰宜町の胡蝶車(伊勢門水著の名古屋祭では明治20年焼失となっているが)を譲り受けた可能性も考えられる。
金毘羅神社祭
10月9・10日の祭礼には台尻が飾られ山車2輌が曳かれた。
特にその内1輌は洲崎天王祭に花園町より曳きだされた船車であり明治後期に譲渡されたものと思われる。旧祭礼日は9月10日。
松山神社祭礼
10月14日の祭礼に黒船の山車を1輌曳き渡した。
旧祭礼日 9月14日。7月の天王祭にも曳いたといわれる。
飯田町は大工町であり、黒船の山車は町内の職人により造られたものと思わる。
上山では、三味線の囃子で芸者さんが舞をした。飯田町周辺は芸者町でもある。
残念な事に黒船の山車は戦災で焼失した。
天道町(飯田町)・松山丸船車
明治18年(1885)松山神社祭車として有志16名により建造された
富士浅間社祭
明道町・舟車
明治38年(1905)富士浅間神社の祭礼車として建造された
富士権現祭
伊勢門水の「名古屋祭」に一寸した祭車を曳き出したとの記述がある。
武塔天神祭(相生町天王祭)
素盞鳴尊を御祭神とする天王信仰の祭礼に山車が曳かれたと思われる。
明治25年(1892)8月、従三位徳川義礼閣下貴族変更にて帰省に相成り歓迎祝賀として、筒井町2輛、出来町3輛、大曽根町1輛、相生町1輛の7輛が山車揃をした記録がある事から他の6輛と同様、本格的な山車であったと思われる。
明治43年には山車の所有は無くなっている。
富士浅間社祭
祭礼日は6月10・11日。明治20年代に門前町上区の有志が前代の陵王、梵天車を修復し、小陵王車と称し当神社の祭礼及び天王社の祭礼に曳きだした。
門前町上区・小陵王車
明治20年代の作。明治31年、奏楽殿及び宝庫を新築した此の年より上区は例祭当日に小陵王車を曳き始めた。
囃子は、伊勢桑名石取祭りに酷似し、青年児童男女が鐘、太鼓を打鳴らし揃いの衣装にて賑やかに練り廻った。
この祭車は若宮祭の陵王車の蔵に保管させていた先代の陵王車や梵天車等を修復して造られた。戦災焼失。
東田町天王祭
6月9日の東田町天王祭に小車に人形を飾り町内を曳き渡した。祭車は文政5年(1822)の作
押切村榎町白山神社祭礼
7月17・18日の祭礼に楽車1輌、神楽を奏で曳き渡した。旧祭礼日は6月17日。
押切村天王祭 本龍寺横町
6月17・18日の天王祭に石橋人形を載せた山車1輌曳き渡した。