若宮祭〜門前町 陵王(りょうおう)車


陵王車 木村哲央氏提供

延宝2年(1656)花車を造る。
延宝3年(1675) 鵺(頼政)車に替る。
天和2年(1682)中絶する。
貞享3年(1686)大神楽車に替る。
※上段に祠があって神主の人形を据へ、中央に松を立て、四方に梅を捶し、中段の屋體の内では裃着用の若者が曲太鼓を打つ趣向である。
元禄年中(1688〜1704) は屋台の中で踊り杯もあったと言われる。
宝暦年中(1751〜1764) のころは片端の車楽に似てたくさんの子供が乗り太鼓を打つのにばちを持ち振り、片足を上げてちぎりをこいで太鼓を打ち、本の座にかえれば他の子供が是れを打つ。
大紋着たるものは笛を吹き又ばちを顔に立等してさまざまの曲を奏でる。
明和5年(1768)陵王車に替る。
門前町の天神様とも言って祭車中一番背の高い車である。

●人形

大将には京極太政大臣宗輔公を据へ一人の太刀持ちを配置して前に舞楽の陵王を置き舞をする。此の故事は書典通考と言う書に京極太政大臣宗輔公内裏より罷出て給ひけるに月面白かりければ心を澄まして車の内にて陵王の亂序を吹き給ひけるに近衛萬里の小路の辺りにちいさき陵王の装束して車の前にて目出度舞ひ見わけり怪しく覚して車をかけはずして榻に尻かけて一曲皆吹通し給ひけり曲終りて此陵王近衛より南萬里小路より東の隅なる社の内へ入にけり笛曲の神感ありけるにこそやん事なき事なり言々とあり。

●大幕

猩々緋に金糸で簾の縫がしてあった。
明治8年(1875)新調する--- 明治18年(1885)説もある。

●水引幕

薄色地に紗綾形と橘の金糸の織出し。

●天幕

天保5年(1834)に渡辺清の筆と替る。

●改修

文化8年(1811)山車を塗り直す。
天保5年(1834)に車體全部改造(車全体が大きくなる)
渡辺清が顧問となって皇国式に則り朱塗の高欄は楽舞台を象り、宗輔公が装束の裾を長く後にたらしたのは京都祇園会の見送りに似て面白い意匠である。又高欄下の秋草の透し彫りは大石眞虎の下絵で、彫刻も又美術の粹を極め金色の沈着した容態は此車中の逸品である。
改造の時藩主斎朝公の御所望により其旧車を新御殿へ献上し其時丸八印の高張提灯二張を拝領した。

●囃子

開化と言う風雅な囃子で帰り車には一種の神楽を用い、此の車を笛遊び車と言う