さて、私はというと、はなから「ここで撮ろう!」と決めていたわけではない。前に書いたように朝方に那古野神社から若宮に歩きながら何カ所か撮影ポイントをチェックしてきた。
しかし朝方とは太陽の位置も違うので光線状態を確認しつ北へと歩いた。
山車の列はまだ本町通に来ていないから時間に多少の余裕はあるが、世紀の瞬間を位置決めで失敗でもしたら悔いが残る。
広小路通を渡ったあたりからさらに注意深く歩く。
大山車まつりの概要がわかってから決めていた事がある。
「上町(うわまち)」で撮りたいなと・・・・
上町は広小路以北を言うが、古くは伝馬町の通りより北側とも
出来れば本町通と伝馬町筋が交わったところ、つまり「札の辻」で撮ろうと思ったのだが、信号の位置がちょっと芳しくなかった。
さらに長年の経験からイヤな予感もする。
それで、伝馬町筋から1本南の袋町筋で待つ事にしたが、ここはその昔「玉屋町」と呼ばれたところ。
玉屋町は若宮祭に上玉屋町の西王母車と下玉屋町の布袋車を出していた。
西王母車は明治25年(1892)の氏子替えによって曳き出す祭礼が若宮祭から天王祭(須佐之男神社→現那古野神社)に替わったが、戦災で焼失して現存しない。
一方下玉屋町の布袋車は古道具屋に売られていたのを明治24年に有松東町が買い取るという運命をたどる。
その布袋車が、後ほど生まれ故郷のここ玉屋町を通ることになるのは感慨深い。
ただ、前述のように時間の都合で布袋車が玉屋町を曳かれる光景を見ることは残念ながらできなかった。
※正確にいうなら私が陣取ったところは上玉屋町で、下玉屋町はもう少し南になる。
享保18年(1733年)京のからくり人形師が東照宮祭林和靖車の「鶴のからくり」の操作指導のため名古屋を訪れ、翌年この玉屋町に移り住んだという。
これが名古屋で今に続くからくり人形師玉屋庄兵衛の始まりで、玉屋の屋号はこの玉屋町に居を構えたことによる。