大山車まつり日記

第2回 開府300年


開府300年祭(写真提供:大内裕二氏)

名古屋開府400年を祝し催されるこの「大山車まつり」だが、100年前の明治43年(1910)にも開府300年祭の「山車奉曳」として山車18輛(車楽2輛・名古屋型山車16輛)の山車揃が盛大に行われている.
開府400年祭をかたる上で、本来なら先例となった開府300年祭にもっと触れねばならないが、先を急ぐ?ので先年400年祭のWebを製作した際に協力いただいた大内氏の原稿を引用させて代わりにしたいと思う

歴史的に見てこの100年間は、名古屋の山車まつりにとって激動の100年であった事は確か.
特に太平洋戦争の戦禍は著しく、名古屋三大山車祭りである東照宮・那古野神社・若宮八幡社の三社は、その祭礼車はもちろん社殿もろとも空襲で焼失し、市内に数多くあった山車もその多くが戦火に消えた.

300年祭に曳き揃えられた18輛の山車のうち13輛も焼失しているが、その中には橋弁慶車をはじめとする東照宮の祭車全9輛も含まれ、東照宮祭はその全てを失ってしまった.
戦後の復興と高度成長、そして価値観の移り変わり、伊勢湾台風などもあったが、今日わずかに残された名古屋の山車はそれらに耐え、町民の心意気と伝統に支えられ今に伝えられた貴重な山車群である.

このように大きく揺れた100年の時を経て、300年祭の出来事は断片的に現在に伝えられている.
絵葉書や古写真も残されているし、伝えられた伝聞も聞くが、寂しいことに大規模な山車揃だったにしてはほんの僅かな証でしかない.
その全貌を知る事は残された断片から想像するしかないのである.
猿猴庵(高力種信=江戸時代末期の尾張藩士で記録魔)がこの時代に生きていたらどうなっていただろうとも思う.

100年に一度の行事に巡り会えた歓びと感動

私の目的はこの「大山車まつり」の一部始終を体感、見聞しつつ記録することである.
明治43年に比べれば機材も夢のように進化している.高価で貴重だった写真機も今ではデジタルカメラとなり、動画だって精細なハイビジョンとステレオ音声で誰でも簡単に撮ることが出来る.
だから今回の400年祭は、100年前とは比べものにならないほど情報は残されるだろう.

しかし一部始終となるとこれは云うほど簡単ではない.
例えば8時半過ぎの時点で時間を止めてみると、東区の5輌は先車の鹿子神車が外堀通から呉服町通に曲がる頃であり、最後尾の湯取車は久屋橋あたりを西進している.
また、中村の3輌は先頭の唐子車が堀川沿いから若宮大通に出た頃で、その後方の二福神車と紅葉狩車は洲崎神社の横あたり.
その間、直線距離で約6kmとなる.
若宮八幡社では福禄寿車が境内に曳き出されているが、まだ囃子方は乗っていない.白川の緑区4輌は幕などの飾り付けを行っている.
いったいどうやって記録すればよいのか途方にくれるスケールだ.

また、若宮神社から9輌の山車が曳き出されるのに約40分、
最後尾の神皇車が若宮八幡の鳥居をくぐる頃には先頭の福禄寿車は本町通を広小路の手前まで来ている.
距離差、時間差等わざわざ数字を持ち出さなくても一人や二人で全て記録出来る規模でないのは誰でもわかるだろう.

次世代に・・・100年後に開府400年はどうだったかを客観的に残せるだろうか.
それは100年経ってみないと判らないが、それでも平成の猿猴庵を目指して動いてみよう.
個人でやることだから大した事は出来ないし、何より私だって100年に一度の祭りを存分に楽しむ気でいる.


ただ精一杯に悔いのないように.