江戸時代初期に成立した東照宮祭は藩を挙げての行事として整えられ、名古屋城下の町々が山車と練り物で参加する名古屋随一の祭りとして長きにわたって続けられた。
しかし、明治維新によって大きく変化することとなった。
前述のように明治9年(1876)に名古屋城三之丸にあった東照宮が名古屋城外の茶屋町に遷座すると警固の変更や減少など祭礼の形態も縮小されてしまった。
山車の休車も相次ぎ、曳行も不定期となってしまった。
尾張藩主導の祭礼であったことと、1,000石あった社領が廃藩とともに廃せられたことも大きな要因であっただろう。