享保18年(1733年)に伝馬町の「林和靖車」が新調された際に、初代玉屋庄兵衛は長い首を自在に動かし羽ばたく鶴のからくり人形を製作し、当時の人々を大いに驚かせた。
これ以後、専門のからくり人形師が名古屋にも多く登場したが、城下の周辺地域にからくり人形を載せた山車が登場するようになるのは、江戸時代も後期まで待たなくてはならなかった。
橋弁慶車が登場して130年余りを経た宝暦6年(1756)には、下七間町「橋弁慶車」、伝馬町「林和靖車」、和泉町「雷電車」、上長者町「二福神車」、桑名町「湯取神子車」、宮町「唐子車」、京町「小鍛治車」、中市場町「石橋車」、本町「狸々車」といった東照宮祭の名物祭車9輌が出揃った。
当初は橋弁慶車のように屋根のない露天の山車形態であったが、万治元年(1658)に桑名町の湯取神子車と本町の狸々車が屋根のついた山車で登場。これが現在に伝えられる名古屋型の端緒となり普及していったと考えられる。
このように名古屋城下随一の東照宮の祭礼に刺激され、城下や周辺地域でも山車祭りが始まっている。