さて、ここまで東照宮奉納を福禄寿車、湯取車と紹介してきたが、個別の山車紹介は若宮八幡の奉納で済ませている。
以後写真だけを並べて済ませてしまってもいいのだが、ちょっと寂しい気もする。そこで東照宮と東照宮祭について何回かに分けて書き連ねることにした。
読んで頂ければわかると思うが、この東照宮は名古屋の山車文化のルーツであり、東照宮祭がなければ今に残る名古屋や尾張地方の山車祭りはなかっただろう。
いわば東照宮は名古屋の山車祭りにとって聖地である
その意味で今回の大山車まつりで東照宮に参拝することの意義は深いものがあると思う。
後述するが、本家筋の東照宮祭の山車9輌はすべて戦災で焼失してしまい現存していない。
だが今回の大山車まつりを企画した「名古屋曳絆会」も次のように述べていることから、山車そのもの(ハード)は失われてもその技術(ソフト)は継承されていることが頼もしい。
東照宮は尾張藩の藩祖である初代藩主徳川義直が、父徳川家康の三回忌にあたる元和4年(1618年)に大祭を行った。翌元和5年(1619年)に名古屋城築城以前より三の丸に鎮座していた亀尾天王社(=三の丸天王社、現在の那古野神社)の西隣に東照宮を勧請し、同時に西隣には神宮寺である天台宗の尊寿院(権現坊)も建立された。
社領は1,000石で創建当時の境内は3,600坪もあったという。本殿、渡殿(石の間)、拝殿からなる権現造に楼門、唐門や祭文殿等も備え、東照宮としては当時最も豪華であったといわれ、社殿などには極彩色がほどこされた華麗なものであったという。