大山車まつり日記

第40回 本町通北上


伝馬町通本町(N)

徳川家康は名古屋城築城に伴い御園町から久屋町まで東西に11列、南北は片端筋から広小路筋まで9列の範囲で城下に碁盤割りの町並みを形成した。

東西の通りを「筋」、南北の通りを「通り」と呼び、その交差する地点は列記して表現していた。

旧町名が消滅した現在でも、例えば伝馬町筋と本町通の交差する辻は「伝馬町通本町」と交差点名として現在も用いられている。
これより13輛の山車は本町通を北上するので、以後「○○通本町」が頻出することになる。

本町通の沿道はその昔、山車を所有していた町も多い。南から末広町の黒船車、中須賀町寿老人車、大久保見町福禄寿車、下玉屋町布袋車、上玉屋町西王母車など若宮祭の山車の多くはこの本町通沿いの町内が所有していた。
一方東照宮祭は、本町通の北端に位置する本町の猩々車を除くと有名な下七間町橋弁慶車、伝馬町林和靖車やら上長者町二福神車、桑名町湯取車など本町通沿いではなく東西の通りや筋にあった。

この本町通、後になって思えば紹介したいところが多々あったが、その大半を撮り損ねている。
例えば、大久保見町は現存する若宮祭の福禄寿車が誕生した町である。
その大久保見町(明治になって鉄砲町二丁目となり、現在は中区栄二丁目)を曳かれる福禄寿車という光景。
撮れてない・・・・
もっとも今回の大山車まつりでは撮れていないが、福禄寿車は毎年若宮祭で通る道。過去に何度も撮っているのだけど。

下玉屋町は延宝3年(1675)に建造された布袋車を所有した町で、明治24年(1891)に有松東町が購入している。
今回大山車まつりに参加している布袋車にとっては玉屋町は119年ぶりの里帰りということで貴重なシーンだった。
が、やはり写真は無い。
私のミスである。

若宮祭ゆかりの山車といえば河水車も昭和23年に住吉町から譲り受けており、また鹿子神車も住吉町の菊慈童車の古車との伝承がある。
住吉町は本町通の1本東側の七間町通沿いなのだが、本町通に轍を残した山車には相違ない。
湯取車は桑名町から譲り受けた東照宮祭の湯取神子車の古車であるが、別の項で述べる。

□動画~本重町本町~福禄寿車と湯取車(撮影:MASA氏)



□写真集~本町通1

11:53 大久保見町(C)

大久保見は大窪みでこのあたりの地形が窪(くぼ)んでいたことに由来するという。
明治27年(1894)道路の拡張と「大窪み」の坂道を埋めるなどの改良が行われた。
確かに写真を見るとこの辺りが窪んでいるように見えるのはその名残だろうか。
※想像で書いているので違ったら申し訳ない。

12:01 鉄砲町から中須賀町あたり(C)
12:06 下玉屋町(C)
12:14 桜通りから南を撮る(H)
12:16 伝馬町通本町(N)

札の辻
碁盤割の町で中心となる南北の道が本町通とするなら、東西のメイン通りは伝馬町通になる。
この本町通と伝馬町通が交わる交差点には、高札場があり「札の辻」と呼ばれていた。
名古屋名所図会に『官道の馬継所なり。京の方、清須宿へ二里、江戸の方、熱田宿へ一里半、慶長18年より宿駅となる。旅籠屋も玉屋町にありて、東西南北の岐なれば、京大坂より吾妻へ下る官人も、伊勢路より信濃のかたへ通る旅客も・・・(以下略)』
とあるように往来の多かった辻だったようで、現代なら広小路通と南大津通が交わる栄交差点のようなものだったろうか。

12:17 伝馬町通本町(B)
12:20 伝馬町通本町(C)
12:38 富田町から北を望む
先頭の福禄寿車はもう片端筋手前で停止している(H)