9輛目の神皇車が通過ぎると若宮大通本町の西に待機していた鳴海町の唐子車が交差点に進入し、北に向きを変えると神皇車に続いた。
この唐子車をはじめ緑区の4輛は前夜トレーラーで運ばれ、早朝より若宮大通公園で曳き出しの準備を整えていた。
これら4輛の山車は若宮八幡社には曳き込まれなかった。
それ故この若宮大通本町の交差点からが大山車まつりのスタートとなる。
後述する布袋車は若宮所縁の山車だっただけに八幡社に曳き入れられなかったのは残念に思う。
ここであらためて緑区4輛の山車を紹介する。
鳴海八幡宮の祭礼(鳴海表方祭)に曳き出される山車。明治11年(1878)、当時の相原村の資産家だった下郷本家が子供の誕生祝いに知多郡小野浦(現知多郡美浜町)より購入したものと伝えられる。
建造年代などは不明だが、 建造当初は白木造りの知多形山車だった。相原町にやってきてから車輪を内輪から外輪に、また屋根の造り替えなどを行い、現在のような名古屋型山車に改造された。
これらは 高欄下の白木彫刻や前棚正面の擬宝珠高欄などにその面影を見る事ができる。 木鼻などの山車彫刻は立川和四郎門下の知多郡上野間の中野(立川)甚右衛門重富の作。
からくりは明治12年(1879)五代目玉屋庄兵衛によって制作されたもので、唐子が柿の木に倒立して太鼓を叩くもの。
下玉屋町(現中区栄3)が所有した若宮祭の山車で、延宝3年(1675)創建と伝えられる。明和5年(1768)にからくり人形が唐子の文字書きとなった。
明治24年(1891)に当時の東町の有志が1,300円の寄付を募り買い取ったもので、この布袋車の山車本体は有松に来てからほとんど改造されておらず、往時の姿がよく残されている。
高欄下の宝尽くしや木鼻などの彫刻、紫檀の高欄手すり、二重になった折上げ格天井など見所の多い山車である。
からくり人形は山車名の由来ともなっている布袋和尚と2体の唐子人形、そして前棚の采振人形の4体。 1体の唐子が蓮台を回し、別の唐子が手に持った筆で文字を書くからくりである。
山車幕は猩々緋に「龍亀麟鳳」の金糸縫。旧玉屋町時代から伝わるもので、文化9年(1812)に制作されている。下絵は名古屋の絵師中村梅逸による非常に貴重な幕である。また後面の詩歌は柳沢吾一の書。
この大山車まつりでは故郷?の玉屋町を曳かれることになるので、今回の大山車まつりへの参加が119年振りの里帰りとなった。
伊勢門水の「名古屋まつり」に「此車は天保時代の制作で内海の小平治と云ふ豪家が個人の物好きに二十年もかかって作りあげた唐木づくめの構造で殊に青貝塗の輪懸坏凝りに凝った山車である。夫れを故あって明治八年に當町へ買取ったと云ふ事」
とあるように、内海(現知多郡南知多町)の豪商前野小平治が天保年間(1830-1843)から20年あまりをかけて制作した山車で、明治8年(1875)に中町(清安町)が購入したもの。
山車の形状は名古屋型ながら、白木の彫刻や屋根の構造などに知多型の特徴が見られ、輪懸には螺鈿が施され、珊瑚などの豪華な装飾とあいまって異彩を放っている。
紫檀・黒檀・鉄刀木(したん・こくたん・たがやさん)などの非常に高価な銘木が使われた非常に重い山車だという。
からくり人形は唐子が2体による文字書きからくりで、前棚の采振人形は弘化4年(1847)隅田仁兵衛真守の作。
現在の有松にある三輛の中で1番古くから有松で曳かれていた山車で、明治6年(1873)名古屋久屋町の御車大工久七に依頼して建造された。
大幕は平成6年新調で、正面には福田一穂の書で「金龍町」と金糸刺繍されている。(金龍町は旧町名)
水引幕は渡辺小華の下絵によるもの。
からくり人形は関羽と唐子二体のからくりだったのを、日清戦争の大勝を祝って明治27年(1894)変更された。
神功皇后が朝鮮に出陣する際に鮎を釣って神意を占った故事によるもので土井新七の作。