
小休止の後、8時20分に先頭の唐子車が曳き出され、二福神車、紅葉狩車の順に更に堀川に沿って南下をはじめた。
唐子車の保存庫から天王崎橋あたりは、ファッションホテルや風俗店が軒をならべ、その先は倉庫や駐車場などが目立つといった具合に生活臭をあまり感じない。
堀川は慶長15年(1611)に名古屋城下と熱田の浜を結ぶ水上輸送路として、福島正則によって開削されたと伝えられる運河である。
名古屋開府400年と同様、この堀川も開削400年を迎える訳だが、こちらはいたって静かで、記念行事があるような事は聞かない。
※大山車まつりには「唐子車」という名の山車が3輛参加している。この中村区内屋敷の唐子車と、緑区有松の中町唐子車、そして同じく緑区鳴海の相原町唐子車である。
正確を期するため「内屋敷・唐子車」、「相原町・唐子車」などとすべきだが、特に区別が必要なところ以外は面倒なので省略して書いている。
前後の流れで判断いただきたい。
ついでだから書いておこう。
名古屋の山車には名前が付けられており、その大半はからくり人形にちなんだ名称で、からくりの題材(演技名)から河水車(河水龍神のからくり)、湯取車(湯取り神事のからくり)などと名付けられている。
唐子車もその類で、唐子遊びのからくり(蓮台や木立、人形の肩などに倒立する)から唐子車と呼ばれている。
尾張の山車で一番多いのが唐子車で、知多半島でも大野、半田などに唐子車がある。鹿子神車も唐子車と呼ばれる事があったようだ。戦災で消失した東照宮祭宮町の祭車も唐子車だった。
また、「福禄寿車」、「王羲之車」、「布袋車」といったように大将人形にちなむ山車名も多い。
例外は戦災で消失した若宮祭の黒船車だろうか。これはその特徴的な船山車の外観が由来となっている。
堀川に架かる天王崎橋を左に見ながら500m程で、堀川の向こう岸に木立が見えてきた。
そして唐子車が広大な通りの若宮通に達すると左(東)に向きを変えた。
この若宮通に出て新洲崎橋を渡ると、先ほど見えた森とはいえないほどの僅かな木々の神社の前を通過する。
洲崎神社である。
洲崎神社はかつては広井天王とも呼ばれ、御葦流しや船祭りなど名古屋城下でも有数の祭りが行われていた。
創建は貞観年間(859~877年)というから、名古屋では若宮八幡社と双璧をなす古社である。
また、近くには尾張藩の御船手役所が置かれ、尾張藩海軍の根拠地として船奉行千賀氏が代々尾張から三河、伊勢、志摩に到る海岸防衛に当たっていたという。
この洲崎神社へ花車の山車が訪れた記録は残されていない。そんな洲崎神社の前を3輛の山車は停まることなく、次々に渡って行く。
洲崎神社と山車、希有な組み合わせだろうから、チョコ氏に撮ってくれるよう事前にお願いしておいたのだった。
二福神車が笹島の山車保存庫を曳き出されてから、若宮通に達するまで40分が経過していた。
午前8時21分 天王崎橋付近の唐子車(C)
午前8時28分 二福神車、名古屋高速が見えてきた(C)
午前8時29分 最後尾の紅葉狩車(C)
午前8時30分若宮通に到達.左に曲がる唐子車(C)
午前8時34分 洲崎神社の前を通過する二福神車(C)