町続きの祭礼〜新道天王祭

往古は名古屋村、広井村全部が天王祭りとして6月朔日より各戸に提灯をつるし、15日の夜には其の提灯を笹につけて三之丸の天王社又は車楽へ捧げた。
其れが追々壮んとなり各個の提灯を集め大八車に飾り立てて片端に曳きだしたが、文化文政年中に車町、益屋町が見舞車と称し人形囃子附の山車新調した当時より名古屋村でも新道、小伝馬町、郷、万松寺領より5輛の山車を造りだした。
広井村と合わせて16輛の見舞車が提灯を飾り立てて華々しく片端へ繰り込む光景は目覚ましいものであったが、明治維新後は随意となって16日の若宮祭に協同して供に天王社へ曳出した事もあったが、その後追々と見舞車の主意は失せて自町の天王祭に曳くだけになった。
明治15年頃、氏神である浅間町の富士浅間社の臨時祭に山車を曳渡す事になり、6月2日は付近の町内を曳き、3日は浅間社の門前に曳込み、新道通りを上畠町迄曳渡し、帰路は提灯を灯した。
尾張年中行事絵抄によれば新道天王祭は昔、巾下新道天王祭(北部)と広井新道天王祭(南部)に分かれて行なわれていたものが、後に統合されたと記載されている。
浦島車の旧車が美濃市泉町に現存する。

新道町・翁車

文化元年(1804)の作(詳細は三之丸天王祭の見舞車の項参照)

新道町・殺生石車

文政10年(1827)以前の作と思われる(詳細は三之丸天王祭の見舞車の項参照)

郷・散手車

文政11年(1828)以前 の作と思われる(詳細は三之丸天王祭の見舞車の項参照)

小伝馬町・湯取車

享和3年(1803)の作(詳細は三之丸天王祭の見舞車の項参照)

万松寺領・浦島車

文政8年(1825)以前の作と思われる(詳細は三之丸天王祭の見舞車の項参照)

※文政7年(1824)の「青窓紀聞」には巾下地区に12輛の山車の存在を記載している。
又尾張年中行事絵抄には9輛程の山車を描いている事から上記記載の山車5輛以外に山車が存在していたことになる。
金明録には文政元年に既に新道天王祭に祭車が登場しており文政3年には俄人形を乗せ、文政5年には装飾・人形とも本式の山車になった事が記載されている。
当地区の見舞車はこの時期に製作された事を物語っている。
関祭の浦島車は円頓寺町から買ったとの伝承がある。