町続きの祭礼〜広井八幡祭

泥江縣神社の祭礼である。清和天皇貞観元年、宇佐よりの勧請と為し天正の頃より広井八幡と称した。
神領を有した時代は年に4度の御神事があり正月には武射の祭式、2月に神輿を出し、8月には放生会、11月には神掌祭を行なっていたが、一時祭礼が中絶した後の延寳4年(1676)に神輿1基を新調し、延寳5年に付近の町々より山車、傘鉾を新調し神輿に供奉して材木町の白山社への渡御の神事が始められた。
その後元禄10年(1697)に三之丸廓内への御神幸が始まり、下御園町の毘沙門車を始め中御園町、御園片町、桜町が山車を出し、葭町より傘鉾6本を出す等御行粧は極めて厳重であった。
享保9年(1724)4月3日の火災で中御園町と桜町の山車が焼失する。
享保18年御上覧に際し毘沙門車は司馬温公の人形へ仕替え、上材木町、元材木町、下材木町より傘鉾を新調し、色々な作り物を乗せた美事な傘鉾を20本も飾り立て御園筋を伝馬町に出、本町を曲げて三之丸へ練り込んだ。
その後此事はとり止めとなり、元文3年(1738)下御園町の山車も廃して傘鉾に替り、古例の白山社への御渡の神事は年々に行なわれた。
これを広井の傘鉾祭と呼んだ。祭礼日は9月15日(旧祭礼日は8月15日)

下御園町・司馬温公車

延寳5年(1677)毘沙門車を造る。
享保18年(1733)司馬温公車に替る。
元文3年(1738)廃車し傘鉾に替る。

御園片町・太公望車

元禄10年(1697)太公望車を造る
元文3年(1738)廃車する

中御園町・山車名不明

元禄10年(1697)に造られる
享保9年(1724)4月3日の火災で焼失する(元禄13年説もある)

桜町・山車名不明

元禄10年(1697)に造られる
享保9年(1724)4月3日の火災で焼失する(元禄13年説もある)